深田 上 免田 岡原 須恵

幻の邪馬台国・熊襲国 (第2話)

2. 邪馬台国への道のり 水行陸行

 現在のソウル付近の港から出発し、海路で現在の釜山か巨済島あたりにたどり着き、これからいよいよ倭(日本)に向けての船旅が始まる。
魏志倭人伝には「始度一海千餘里至對海國」とある。
意味は、始めて海を渡ること千余里で対海国(つかいこく)に達する、である。
対海国とは現在の対馬のことで、狗邪韓国(くやかんこく)から対馬までの距離はおよそ1000里だという。実際の距離を地図上で調べてみると、釜山から上対馬町までは58km(この時の1里=58m)、巨済島からだと68km(1里=68m)である。釜山から南端の厳原町までは124km(1里=124m)、巨済島からだと76km(1里=76m)、釜山から対馬中央の浅茅湾(あそうわん)までは102km(1里=102m)である。巨済島からは82km(1里=82m)である。( )内は、このときの1里の距離である。これらのうち、前述の1里の距離が88mから99mに近い航路は、釜山や巨済島を出港地として対馬の浅茅湾であることがわかる。

 次の航海は対馬から壱岐島(いきのしま)の壱岐国(いきのくに)である。そこまでの距離も1000余里とある。原文はこうである。「又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國」、これは、また南にカン海を1000里ほど渡っていくと一支国(いきこく:壱岐国)である、の意味である。対馬の浅茅湾から壱岐の現在の郷ノ浦港までの距離は約83kmであり、1里の距離は83mとなり、前述と整合している。次は、壱岐島の壱岐国から九州本土の末盧国(まつらこく)への距離である。魏志倭人伝には、「又渡一海千餘里至末盧國」とあり、意味は、また、一海を渡ると千余里で末盧国に至る、である。

 この「末盧国」がどのあたりなのか、これまでの多くの識者の意見はおよそ一致していて、現在の松浦半島、ないしはその付け根付近である。遺跡の分布状況から判断すると、唐津あたりである。そこで、壱岐島の郷ノ浦港あたりから松浦半島突端の呼子町(よぶこちょう)あたりまでの距離を地図上で計測してみると、約40kmほどであり、ここでの1里は40mとなる。しかしこの値は、これまでの88~90mとは大きく異なる。これもまた議論の的であるが、邪馬台国の会を主宰されている安本 美典先生の説によると、著者の陳寿が潮流を考慮した結果だという。つまり、対馬海峡では対馬海流の流れが速く、潮流に乗れば短時間の航海ですむ。距離だと短い距離に相当する。しかし、壱岐―唐津間の玄界灘は海流から離れているために潮流は遅く、長い時間かかり、距離的には長い距離を航行するのと同じことになる。そのことを勘案して、著者の陳寿は、距離を長くしてあるというわけである。そこまで勘案されているのかどうか、「末盧国」の場所が比定されれば分かることであるが、2007年、唐津市の教育委員会は末盧国王墓の甕棺(かめかん)を発見したと発表した。場所は間違いなさそうであるが、壱岐―唐津間が、なぜ1000里であり、1里が40mなのか、まだまだ不明である。

 いよいよ九州本土での陸行(りっこう)の行程である。「末盧国」から現在の糸島市、邪馬台国時代の伊都国(いとこく)までの距離である。
倭人伝には、「東南陸行五百里到伊都國・・・統屬女王國郡使往來常所駐」とあり、
意味は、末盧国から東南に陸上を500里行くと伊都国に到着する。・・・女王国に従属している。帯方郡の使者が往来し、常駐していた場所である、である。
1里を88m~99mとすれば、この500里は44km~49。5mとなり、末盧国、松浦半島の突端、現在の呼子町あたりから糸島(いとしま)市までの距離は約45kmであるから、現在の糸島市あたりが邪馬台国時代の伊都国であったと想定される。
この伊都国は、「統屬女王國郡使往來常所駐」とあるように、女王国の邪馬台国に属していて、帯方郡の使者が常駐していたくらいであるから、いわば邪馬台国の首都と言えるくらい重要な地であった。この伊都国までの魏志倭人伝に記載されている王国や、そこに至る方位や里程については、これまでの多くの歴史家や考古学者の見解が変わらない部分であり、伊都国の比定地(ひていち)は現在の糸島市あたりである。

想定航路
図4. 朝鮮半島の帯方郡から伊都国までの想定航路(赤線)ほか

 そこで、帯方郡から伊都国にいたる航路を東アジア地図に書き込んでみた。それが図4で、赤の太線がそれである。弥生時代以降も、わが国は大陸との交流や進出が続いた。図には、そのルートも参考までに書き込んである。例えば、7~8世紀、飛鳥から平安時代にかけては遣唐使船(けんとうしせん)が往来した。先に述べたように、主に室町時代から江戸時
代にかけては朝鮮通信使、もっと前の奈良から平安時代にかけては、中国東北部、以前の満州国あたりにあった「渤海国(ぼっかいこく)」からの渤海使(ぼっかいし)や倭国から渤海国に派遣された遣渤海使(けんぼっかいし)が行き来していた。

 戦前、戦中は、大東亜共栄圏構想による大陸進出のための航路もできた。この「大東亜共栄圏」というのは、太平洋戦争中に日本が唱えた標語で、東アジアにおける欧米の植民地支配を退け、日本を中心にした東亜民族による共存共栄をはかるというものであった。スローガンは、日本書紀の神武記にあるように、世界を一つにするという意味の「八紘一宇(はっこういちう)」である。しかし、東アジア諸国とっては侵略であり、植民地支配者が西欧列強から日本へ変わっただけのことであった。この「八紘一宇」の塔は、刻まれた文字はそのままに、今も「平和の塔」として宮崎県平和台公園に建っている。

 実現はしなかったが、昭和14年(1939年)には、図4に破線で示したような「弾丸列車計画」があった。線路(破線)は北京付近までしか描かなかったが、当時の計画では、ビルマやマレー半島のシンガポールまで線路は描かれている。この「弾丸列車計画」の工事は、当時の本土では始まっていた。現在の新幹線の新丹奈トンネル掘削工事の始まりであるが、戦況が厳しくなってきた昭和18年に工事は中止された。しかし、その後の新幹線計画によって、工事は再開され、現在は、熱海駅 - 三島駅間にある新丹奈トンネルとして供用されている。

 脱線してしまったが、本筋にもどろう。魏志倭人伝の続きは次のようになっている。( )内は意訳である。
東南至奴國百里・・(伊都国から東南へ百里行けば奴国(なこく)に至る)。東行至不彌國百里・・(奴国から東に百里行くと不弥国(ふみこく)に至る)。南至投馬國水行二十日・・(不弥国から水行二十日、南へ行くと投馬国(とうまこく)に至る)。
次にこうある。「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月・・」。意訳すると、投馬国から舟で10日、陸上を歩いてひと月、南へ向かうと邪馬壹国(やまいちこく)に至ることができ、女王の都である。
 この記述内容が、江戸時代より今日まで未だ決着していない問題箇所なのである。「至邪馬國女王之所都水行十日陸行一月」の中に、どんな謎や疑問があるのか、わかりやすくするため図5にまとめた。そして図6は、魏志倭人伝に記述され内容から、倭国への方位とおよその比定地を示したものである。

謎   方位と工程
図5. 「南至邪馬壹國女王之所都
水行十日陸行一月」の謎
  図6. 倭国への方位と行程

 まず、図5において、「南至邪馬壹國・・」とあるが、「」は「」の間違いであるという指摘である。この意見は邪馬台国畿内説者から出ている。なぜなら、図6に示すように、邪馬台国が「南」であれば畿内には至らないからである。次に、「・・邪馬壹國 」とある。「」は「いち」であり、よく似ているが「」「たい」ではない。これは、「邪馬台国はなかった」の著者、古田 武彦氏の指摘である。氏は、よく似た字ではあるが間違いではなく、畿内説論者が「やまたいこく」は「大和地方、大和政権やヤマト王権」などと結びつけるためであるとしている。しかし仮に、「邪馬壹国」が「やまいちこく」であっても、女王国であることには変わりない。

 次に、「水行十日陸行一月」である。これは邪馬壹国にたどり着くまでの所要日数であるが、どこからの所用日数なのかわからない。投馬国からなのか、伊都国からなのかである。さらに、大きな問題は、水行(すいこう:海湖川などの水路航行)なら10日、陸行(りっこう:陸路で行くこと)ならひと月かかるという意味なのか、水行で10日、さらに陸行で
ひと月が必要という意味なのか、とらえ方によっては大変な所要日数の違いになる。

<つづく>  
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